9月13日 青春

尾瀬の帰り道、延々とつづく苦しい下り坂をおりながら
大学時代の友達と「部員の名前思い出しゲーム」をやってました。
思い出せない人が少なくなくてビックリもしました。

あと、 そもそもなぜ淑徳大学に入学しようと思ったのか、という話も。

聞かれてみてそういえば〜といまさらいろいろ思い出しました。




*****



僕は中学、高校と吹奏楽部で部長やってました。
担ぎあげられるタイプだったので。
「福井くんがいいと思いま〜す」的な感じで部長に推薦されて「あ、そう?みんながそういうなら…」って感じでひきうけるんですが、だいたい「推薦したのお前らだろ」って感じに手のひらを返されたりハシゴをはずされたりと、なかなか辛い気分にもなることも多かったです。


部長として、集団を客観的に見続けてきて不思議に思うことがありました。


普段、「私はこう思う」「私は私」みたいな感じで、個人の意見、ひとりの独立した人間として行動をしていた人が、ある瞬間いきなり、「わたしはなんの意見も持っていません」「みんなの意見が私の意見です」みたいにいきなり自分の存在を消して、集団の中にサッと隠れるのです。

僕はそれを客観的に見ているから、いままで「私は〜」ってイキイキと意見を言っていた人が、急に「私は砂漠の中の砂の一粒です」みたいな存在に変化する瞬間を何度も目にしました。


それがとても不思議でした。
「よくそんなことができるな」「はずかしくないのかな」「意識的にやっているのか、それとも無自覚なのか」

僕にはそれがとても無責任で恥ずかしい行動に見えてしまってしょうがなかったのですが、同時に、集団の中で生活する人間として当然の行動なんだろうなとも思っていました。

高3の時に「社会心理学」という文字を目にして、これじゃねえかと。

社会で生きる人間の心理。これだ俺の知りたいの。
ってことで、社会心理学の講義があって推薦で入れて関東圏の淑徳大学に入ったのでした。

 


****


で、大学の吹奏楽部でも部長をやって、会社はあっというまに辞めて。

結局、ぼくは「集団の中のひとり」という役割を与えられた機会も少なかったし、それを上手にこなせたことが一度もないと思います。

海の中で波の動力に任せてゆらゆら揺れる昆布を演じたことがたぶん一度もないし、それをやると体壊すんだと思います。

その海がカスピ海ならカスピ海。オホーツク海ならオホーツク海。
プールならプール。水槽なら水槽。
その容器を強く意識して、その中でどんな魚が何食って生きてて、苦しくないか腹減ってないかさみしくないかほんとは太平洋に出たいんじゃないかなどを認識していないのは無責任なことだと考えているんだと思います。

で、それはとても疲れることなので、できればそんな面倒なことはやめたい。
ぼくの基本はただ単にイラスト描いて生きるだけの人間です。




 ****




ただ、ここに来て「集団」っていうものを観察してみると、新たな発見があってそれはとても新鮮でした。


便宜上「集団」を「大人数」と言い換えます。おおにんずう。


5人くらいの集団なら大丈夫です。
でも「大人数」 と言われるくらいの人数になると全体と個々人の把握はとても大変。
だから僕は「大人数」がとてもニガテです。


しかし、気づいたこと。
僕が大人数だと思っていたものは、大人数というひとまとまりではなく、「いくつかの多くて5〜6人の集まり、もしくはいくつかの3〜4人の集まり、そして集団になじめていない数人の1人たち」 で構成されていることに気づきました。

全然大人数ではない。


集団というのは「共通の目的」を持っていますから、それのもとに「まとまっている感」があります。

しかし「結局多くて5〜6人の集まり」が複数あるだけなんじゃん。

てことは、みんなニガテなんですよ、大人数。
集団行動なんてできてない。
ぼくだけじゃなかった。



「結局多くて5〜6人の集まり」である、ことに気づいたとき、ぼくは「みんな、集団であることから逃げている!」とハッキリ言って軽蔑の気持ちがわきました。

しかし、もうみんなオトナです。
何年も会社で働いている人たちばかりです。
ぼくよりも集団で生きることに長けている人たちです。

その人達みんなが(自覚的なのか無自覚的なのか)選択している行動なわけですから、きっとそっちの方が正解に近いのだろうと思いました。

僕の理想を期待するのは大きな間違いで、僕が好きでやりたいなら勝手にやりゃいいだけのことでした。







特殊な学生時代(それも中高大すべてにおいて)を過ごしてきてしまったので、「集団であることから逃げていて無責任である」という意識はなかなか消えないと思うけど、「それを人に期待しない」ということは意外と簡単にできそう。




自分は正しくなかった、と知れることはきらいじゃないのです。