四コマ映画『悪は存在しない』

 悪は存在しない

Evil Does Not Exist
上映日:2024年04月26日
製作国:日本
監督 濱口竜介
脚本 濱口竜介
出演者 大美賀均  西川玲  小坂竜士   渋谷采郁   菊池葉月


四コマ映画『悪は存在しない』






上と下

この地球では、男女や貧富の格差で出来てしまった上下関係から起きる問題がずっとあり、
その中での犯罪や犯罪に近いものが次々と暴かれていき、その構造的問題にメスが入ろうとしているのが今の日本。

男女格差や貧富格差を社会問題だと思っていない人にとっては、「弱者が騒いでいる」「弱者の方が強者より強い」という思いがあるのでしょう。

「男であるだけで偉い俺・強者になれた偉い俺」から見ると、弱者が惨めな思いをするのは自然なことであり、弱いお前が悪いという考えなのでしょう。

この映画での上下は川の上流と下流という地理的なものでしたが、
社会構造での上下の隠喩だと捉えると「まさに今!」的。

しかもメンターおじいちゃんが「上には義務がある」ときっぱり言ってくれているわけだけど、、、
残念ながら「貴重な意見として持ち帰ります」と暖簾に腕押しな対応は、
去年あたりからよく見る政治家の会見(の方が酷いが…)のようで、この点でも「まさに今!」的。



観光地で生きるとは

僕は多感な10代をある観光地で暮らしました。
とにかく観光客ってのはウザいのです。

この映画にも
「都会から来る人はここにストレスを投げ捨てに来るんです」というセリフがある。

「せっかく来たんだから」と社会常識から外れたことを、しかも集団でできてしまう。
1年365日そんな非常識集団を横目に日常生活を送っている。

現地民と開拓者

この映画の主役は自分を「開拓三世」と言っていた。
開拓民は何世まで続けば現地民になれるのか、永遠になれないのか。

しかし開拓者にはそれなりの責任があるという社会通念はあると思う。それを果たしているかどうかは別として。
ただ、観光客にその土地を踏み荒らした責任を感じている人がどれほどいるのか。

その観光客を呼び込んで儲けようとしているのが、この映画での開拓者側の芸能事務所。
上映から半年経ってやっと観ました。


この映画の内容について全然知らずに観ました。
これだけの話題作ならイヤでも情報が入ってくるものだけど、全然入ってこなかった。

それが不思議だったけど観たらわかった。
なるほど、これは難しい。。。
どういう話かを表現するのが虚しくなるよね。。

思うがままに感想を書くしかない。。

**

必っっっっっっっっ死にバランスを取って生きてるんですよね。
主役の巧も〝自然側〟にも立てるけど自分も開拓民(開拓三世)として自然を壊していることを自覚している。
木を粉々にして薪にして燃やすことも
歩道を車で走ることも暴力的なものにも見えてくる。

コンサルも芸能事務所の社長もとてもクズに見えやすい。
「果たして彼らはクズだろうか」という問いに瞬時に「クズだろ!」と言いたいけれども、クズだろうか。
もしくは彼らがクズだったして、それが何なのか。

芸能事務所の社員の高橋と黛は、巧に吸い寄せられて〝自然側〟に立った風になってけるけど、そんなにすぐに立ち位置変えるヤツって信用できるかね。
妻(娘の母)の不在のバランス

巧の妻、花の母はいない。理由は語られないがどうやら長期的にいない。もしかしたらモルディブに旅行に行ってるのかも知れないくらいに理由はわからないけど、とにかくいない。

巧は妻(娘の母)の不在のバランスも必死にとろうとしてる感がある。

クズ芸能事務所の杜撰なグランピング計画も、自分だって開拓民であるという事実と明らかに水質が悪くなるなどの理由から、必死にバランスをとろうとしているように見えた。 



ラストネタバレは以下に!










終盤、巧は娘の花が失踪したときも黛の手の怪我の治療を優先させた。
「こんっっっっっの大事な時に怪我なんかしてんじゃねえよ!それでも大人かっ!」と怒鳴ったりせず、自宅まで車で連れて帰り丁寧に処置をする。

そこからやっと花を捜索。


子供と氷の張った池の組み合わせって映画ではやっちゃいけないよ。。。
「その展開だけはやめてください」と思っていた展開。。

とはいえどうやら池に落ちたわけではないが、どうやら花はどこかで心肺停止状態っぽくなっていた。


発見当初、花と鹿が向かい合っていた。
自然と人間との適切な緊張感を保った状態での温かな空気感が両者にはあった。

そこに高橋が「花ちゃんっっっっ」みたいな感じで駆け寄ろうとした瞬間、
巧は高橋を羽交締めにして背後から首を絞めて気絶させる。

(この行動について、主演の大美賀均さんは「花と鹿の間に起こること、花にとってきっと大切になるだろう時間を邪魔しないでほしいと考えていたのではと、今にしてみれば思います」と語っています)

しかしその緊張感(距離感)を花が破った(鹿に近づいた)途端、鹿は消え、花はすでに倒れて顔を青白く息はしていない様子。

巧は花を抱えて画面奥の方へ消える。
息を吹き返した高橋が起き上がり歩くもすぐにまた倒れる。

終わり




言葉にしようとすれば出来るし、
意味をつけようと思えばつけられる。
でも、それしちゃう?
意味をつけちゃったらこの美しい映画、この美しいラストが壊されてしまうよね。。


でも、自分が感じたことくらいは書こ。


美しい(?)バランスで保たれている人間と自然。
しかしバランスを壊すのは簡単。
なんかの補助金が出る出ないのことで簡単に壊される。

娘(人間)と鹿(自然)の美しい関係を見た。
それを壊そうとする人間(高橋)が現れた。
邪魔者を消してしまおう。

その利己的な暴力は〝人間的〟とも言えるけど、
同時にとても〝野生的〟とも言える。

どちらにせよ、社会的な存在である人間としてのバランスは壊れてしまった。
とはいえ、自然界からしたらどうでもいい事件。