生誕140年特別展
the 140th Anniversary of His Birth
"ASAKURA Fumio
アトリエの
in His Studio"
朝倉文夫
【資料シート】
1907年、朝倉がこの地に初めて建設したアトリエ。
増改築を経て、1935年に建設した現在のアトリエ。
朝倉がのこした言葉から、アトリエに対する想いを読み解きます。
アトリエについての朝倉文夫の記述
最初のアトリエ 1907(明治40)年
美校を卒業したのが明治40年の3月で、これでも壮士25歳の時はあったのだからう
卒業と殆ど同時にアトリエ建築に着手した。それは在学中、西郷・川村・仁礼三海将銅像制作の募集あり、これに応募して一等選ということで、仁礼提督の原型一文
二尺のものを制作するべく差迫っていたからである。(中略)建物の土台になるところだけは工夫して是非とも高くして置きたい。幸いアトリエの設計に地下室の必要があったので、その出土は立にしてたしかに六立坪はあるから、床下から土台廻り、門を入って玄関まで、この位なら十分地盛りの出来るだけの見当はついた。
学校を卒えたばかりのたまごに地下室とは分に過ぎるが、その地下室というのはこう
与えられた銅像の設計図によれば、銅像の高さ一丈二尺、台座の高さ一丈五尺であるから、その高さまで制作時に制作を上げその視覚度に於ける形の変化を研究したい。併し制作中その儘その高さに上げることは到底不可能であるから、むしろ地下室を拵らえ、その中にもぐり込んでそして観察してやろうという魂胆であった。
それから、も一つの計画は、室内の光線で作ったものが銅像となれば外光をうけるのであるから、制作中外光による投影の制作に及ぼす現象、又、朝と夕とどんなように変化するものであるか、それ等の研究を必要としたので、トロッコの上に大きな八角の廻転台を取付け、背後の壁面を桁の高さまで二段の大戸とし、そして上下共に観音開きとする。これを開けてトロッコを押せばレールの上を辷って目的の位置に運ばれる。
このトロッコやレールの装置は図面で一目瞭然であるから説明を要しないが、この地下室の方は、もぐり込むなどいって何者にか間違えられそうでもあるから一寸説明の必
平面図でアトリエは二間半に三間、これに続く応接室は二間半に二間、合せて五間の長さをもつ。
東方アトリエのトロッコの上に据えた廻転台上の制作を一方の応接室からすれば、優に四間隔たる視角を有つことが出来る。これを其儘地下に移して丁度、応接室の床下に一間半四方の深さ一文四尺の穴を掘ってこれを部室とするわけである。
この部室とアトリエの中程、大凡二間の長さを少し急勾配ではあるが、三尺中の階段にする。この階段を下りて制作を見上げると、丁度制作を台座の上に取りつけた高さとほぼ同様な視覚度をもって実験される。この試みを実現するべく地下を掘り下げることにかかる穴掘りを必要としたのである。そしてその掘出した土を盛土に用いたから、先づ一挙両得をやったわけである。
「「未定稿]我家吾家物譚/朝倉彫塑館写真集」8〜10頁
現在のアトリエ1935(昭和10)年
何といっても家を建てる目的が大変である、多過ぎるのである、自分ながらはっきりしているようないないような復雑さである。へんな文句ではあるがこんなことをすさみながら、アトリエであり、住宅であり、別であり、彫塑塾であり、友人の倶楽部もよかろう、宿泊所もよかろう、そして外人観光を迎える設備もやろう。
ここで述べて置きたいのは、その頃、外務省、鉄道省の観光局、美術学校等で外来
人が日本の美術家の生活を見たいとか何とかいえばその都度の申込に接するのであった。2、3人や5、6人なら兎も角、20人30人のお客となれば少々の設備では受けこたえられるものではない。こんな設備のないところに引っ張って来て美術国日本のほこりでもあるまい。だからといって辞退するわけにもゆかず、困ったことと思っている矢先であったから、こうした用途を含めた設計、いよいよ以て複雑である。
一体、美術家がこうした社交ということは得意な人もあろうが私としては好まない。も少しアトリエに引籠った職人で満足していられるのだ。しかし、これもなりゆきで辞退しないのも風流だ。いろいろな外人の顔を心を居ながらにして拝接るのは面白いことだ。有難いことだ。こんなばらばらなことまで用途目的に加味して一画の中に雑居させよう、そしてそこに一貫した統括をやろうとするのだから、どんな大建築家でもおいそれと引きうけてくれる人はなかろう、それにアトリエ建築ときたら大の難かしやと来ているから、仕舞にはいやな顔もしなければなるまい。それには何んでも彼んでも自分勝手に気儘にやりたいことをやって困ってみたりよろこんでみたり、それも面白かろうというわけである。
(中略)
建築は用途に叶うことを第一の条件とするが用途にさえ叶えばそれで以て完美かといえばそうでもない。用途を含めて猶且つ快感を供うところに建築美がある。だから科学美万能というわけにもゆかぬ。
一たい。文化住宅の目指すところがそれである。しかし、文化住宅の欠点とするところは少しの無駄をもやるまいとするところにある。ところが建築は如何にして無駄な場面を生かそうかとするところに大きな技術を要する。無駄なところがあるから生活をのんびりさせたり、そして又どうかすると文化建築に対照して茶席造り建築がある、これは又普通一段高く床の間があって畳を敷き脇床があるというような座敷造りもきまりきっていつでも単座して取りすましていなければならぬようなお座敷造りも必要な場所であったりする。こうした行き方は、近代的な考えからすれば当り前のことであろうが、いさ実現となれば甚だ難しいことである。茶席には使途に伴う制限があって窮屈な点がないとはいえない。こうなれば茶席造りというものは過去の文化建築であったということかと考えられ、云える。しかしその点数寄屋風にはそうした伝統もなく最も自由に扱えるという創造の余意を与えられているところに魅力があったわけである。
(中略)
それからアトリエ設備に最も工夫を要したのは、老ゆるとも益々盛んなりといってみたいが、大きな丈の高い彫刻をやるには足場の上にのっかってやる。観察するときはのそりのそりと下りて来る。又のっかる又下りる、そんな仕方を繰り返して体が疲るれば頭も疲れる、そんないたいたしいことは真っ平だから、これは一つ機械装置によって制作の方を上げ下げして自由自在にこさえられるようにやろう。上騰下騰の設備をやっても穴勝贅沢というべきではなかろう。
(中略)
この昇降機の動力装置に三方法が考えられる。エレベーターのような分銅式にするか、油圧でやるか、螺旋でやるかであるが、分銅式の速度もいらねば油圧式の遅鈍でも困る。そこで螺旋式を採用すれば先づ故障が起らないことと最悪な場合でも安全感がある。それは下に落っこちないことである。そしてこれ等の機械装置はすべて鉄筋コンクリートでやるから自然アトリエも鉄筋コンクリート造りとしなければなるまい。
この鉄筋コンクリート造りというものは趣味には合わないが用途の為には仕方がない。到る処に洋風建築を見るだけは見て少し見厭きてはいるが未だゆっくり住ったことはないから、当分住きることもなかろう。それに鉄筋コンクリートという建築材料は何れの国のものでもなく世界的の建築材料である。それにも拘らず、いろいろな国の建築形式を拝借するからちぐはぐになるのでこれも勝手気儘なアサクリックでゆくか。
石松健男撮景
Photographed by ISHIMATSU Takeo 1962
そこで気になるのは、この鉄筋コンクリート造りと数寄屋造りとの調和であるが幸いなことには遠望される地点がないから外観を気にすることはない。問題は部室と部室とのつながり位のことでたいして難かしいことでもあるまい。そしてタイル張りの外観というものは何んとなくやすっぽいからむしろコンクリートの打ちっぱなしということにして防水にはコールタールというセメントと最も馴染のよい塗料を用いよう。そして黒い色なら汚れ目も目立たず光線の反射による近所近辺の邪魔にもなるまい。
こんな考えで設計図の出来上ったのは昭和8年の中頃であった。
『[未定稿]我家家物譚/朝倉彫塑館写真集』49~52頁
※横書き表記に伴い、漢数字の一部を算用数字に改めた
※傍線・マーカーは補記した
朝倉が最初に建てた建物は、アトリエを主とした、いわば制作の場としての意味合いの強いものでした。そこには朝倉の合理的な側面が色濃く反映されています。
現存する建物にもそうした合理性は随所に発揮されている一方、一見すると合理性とは相反する要素も見られます。一例をあげると、コンクリート造と木造を接合させたことなどです。そこからは、目的一辺倒ではない「創造の余意」を重視し、「無駄な場面を生かそう」とする姿勢が見て取れます。こうした止揚的発想は朝倉独自の哲学を端的にあらわすものであり、現存する建物は朝倉流哲学を体現するものといえます。
朝倉自身は自らの考えを「アサクリック」という独特の言葉を用いて軽妙に表現しています。この言葉の核心は”相反するものを独自の美学で融合・調和させるこど”にあります。こうした朝倉流哲学は、数々の実践の末に到達した朝倉の境地といえます。







