
第五の騎士は恐怖(1964年製作、1965年公開) A pátý jezdec je Strach/And the Fifth Rider Is Fear
製作国・地域:チェコスロバキア 上映時間:分
監督 ズビニェク・ブリニフ
脚本 ハナ・ベロハドスカ ズビニェク・ブリニフ
原作 ハナ・ベロハドスカ
出演者 ミロスラフ・マカセック
あらすじ
ナチス占領下、負傷したレジスタンスを非合法に治療するため、モルヒネを求めてプラハ中をさまようブラウン医師。
個性的な登場人物たちとの邂逅や街の様子をとおして、戦争に蝕まれ崩壊しつつある社会を幻覚的な映像で描き出す。
『ヨハネの黙示録』の四騎士を踏まえたタイトル
『ヨハネの黙示録』ってのは新約聖書のラストのパート。
そこに書かれているのが、世界に終末と災厄をもたらす四人の騎士。
第一の騎士は「支配」
第二の騎士は「戦争」
第三の騎士は「飢饉」
第四の騎士は「死」
そして、第五の騎士は「恐怖」だ!というのがこの映画。
イラン映画『熊は、いない』(2022)に通じるテーマ
「近くに熊がいるぞ!」と誰かが言うだけで人は警戒する。自重する。
命令しなくても、ルールを作らなくても、人は勝手におとなしくなる。
熊がいるかどうかは関係ない。「熊がいる!」と大きな声で言い続ければいいだけ。
『第五の騎士は恐怖』の恐怖がそれ。
統制したい側は恐怖さえ作り出すことに成功すれば、あとは市民同士が監視し合っておとなしくなってくれる。


ナチス占領下のプラハ

舞台はナチス占領下のプラハ。主役の男はユダヤ人男性のブラウン。
彼は医師だけど医師として働くことを禁じられていて、倉庫番の仕事をしている。
その倉庫では、同胞ユダヤ人たちから没収した家具などが保管・管理されている。
映画冒頭で映される大量の時計やピアノの奥には、おそらくすでに殺された大量のユダヤ人たちがいる。それはブラウンと同胞であり、ブラウンはそれらを事務的に保管・管理している。
それをさせているのはルールだけではない。刃向かえば自分も殺されるという恐怖。
壁には大量の通告書が貼られている。
「速やかで正確な通報が、あなたの安全を守ります」
密告社会。スパイは誰だと市民同士が監視してくれる便利なシステム。
2026年の社会とも響きあう
1960年代のチェコスロバキアは一党独裁体制。
その批判を直接描くことはできない。
1940年代のナチス占領下の物語としてなら描ける。
しかも、ちょうど自由と抵抗をテーマにした革新的な作品群「チェコ・ヌーヴェルヴァーグ」が生まれていた時期。
1940年代のナチス占領下のプラハを描いた1965年の『第五の騎士は恐怖』が、2026年の現代社会と響き合ってしまう。
これが一番の恐怖。
「私は医師だ」

ある時、銃に打たれて怪我をしたナチスに対するレジスタンスの男がブラウンの前に現れる。
医療行為は禁止されているし、レジスタンスを匿って治療までしたとなればブラウンは殺されるかもしれない。
でも、ブラウンは医師としてその男を治療する。
しかし、モルヒネがない。痛みはその男を苦しめる。そして痛みで大声を出せば見つかってしまい自分も殺されるかもしれない。


映像で描く社会の歪み
そこからブラウンはモルヒネを探して街を歩く。
病院、酒場、売春宿、精神病院…。
どの場面も異様に歪んで見える。
この映画は『カリガリ博士』などドイツ表現主義映画の系譜を感じさせる。
舞台美術そのものが客観的な現実ではなく、恐怖に追い詰められたブラウンの心理に合わせて歪んで見える。
1964年であればカラー映画は生まれていた。
つまりモノクロを選択した映画だと、言っていいのかな(予算的な問題もあったかも)。
モノクロにして色の情報を削ぎ落とすことで街の異形や空気感を映せていると思う。

ラストネタバレは以下に!
アパートの住民たちはそれぞれスネに傷のある者たち。
誰もがゲシュタポに目をつけられたくない。
「自分だけは助かりたい」
「ブラウンに、自分たちの罪をも被せてしまいたい」という空気になっていく。
密告したファンタは「義務だった」と言うが、今度は自分が殺されるかもと取り乱す。
ゲシュタポに追い詰められたブラウンは
「私は医師だ。いや、医師だった。いや、今も医師だ」と言って青酸カリを飲んで自殺する。
アパートの住民たちがブラウンの死体の横を通って、自室に戻っていく。
ブラウンは死ぬ直前で政府から奪われた自分の職業(医師)を取り戻した。
しかし、ラジオではプロパガンダ放送が延々と流れている。
おそらく政府が多額の広報費を費やしているのでしょう。
ブラウンの死ごときではおそらく1mmも変わらない。
彼の声を掻き消すように国家の言葉が映画を埋め尽くす。
恐怖の騎士の姿は見えない。
でも、そこここにいる。
終わり。